〜パキスタン編〜

 
第十三話
光と影の揺らめくの巻
 
ラホールの駅でかなりヤバイ状態
 
ラホールには、ある黒い噂が旅行者の間で囁かれている。
それはインドでも何度か聞いたし、国境から一緒になった二人も話していた。
その恐るべき内容はこうである。
ラホールのホテルは忍者屋敷
どういう事か説明すると、ホテルの部屋の壁に隠し回転扉がついていて、
小金を持った旅人が宿泊すると、その向こう側に待ち構えた
武闘派集団が来襲するというシステムである。
旅行者にとって危険な状況は数あれど、嫌でも無防備にならざるを得ない
寝る場所が信用出来ないというのは、全てにおいて最悪ではあるまいか。
そんな訳で悪名高きラホールからは早々に引き上げ、
フライングコーチと呼ばれる長距離バスでパキスタン中央部の都市、
ムルタンへと向かう事にした。
ただどちらにしても、パキスタンには長く滞在するつもりは無い。
治安に不安があるという事もあるが、パキスタン最大の見所は
氷河を見る事の出来る北部の雄大な自然で、
そこまで行くと大分遠回りになってしまう。それに、
山はもうイイッスよ・・・
という気持ちも、多分にある。(第二話参照
さらに有名なのはインダス文明の遺跡モヘンジョダロだが、
保存状態が悪く、ただの朽ち果てた廃虚でしかない事もまた知られていて、
行ってもガッカリするのは目に見えていた。
パキスタンは単なる通過点に過ぎない。
その考えは国境の二人組の片割れとも同じで、
それなら暫くは一緒に行動しようという事になった。
もう一人は北から中国へ抜けるそうで、ここでお別れである。
 
国境からラホールの駅前へ到着した後、まずは食堂で腹ごしらえをする。
内容は牛肉入りカレーとチャパティーで、かなりヤバい味だ。
油っこくて、このクソ暑い中決して食欲の沸く様な代物ではないが、
体力の事を考え何とか全て食べきる。
ただ、スプライトに似た炭酸飲料は良く冷えていて旨い。
その後街へ出て、フライングコーチのチケット売り場を探しに出るが、
もはや俺様に意思というものは無く、
先を歩く二人に全て任せっきりであった。
今、仲間がいるという事が、とてつもなく大きな救いとなっている。
もしこの状況で一人きりなら、チケット売り場を探し出す事すら困難だろう。
英語もインド程には通じないし、
あまり強引では無いものの忍者屋敷の客引きも近寄ってくる。
イヤー、仲間ってイイッスね〜
国境で「先に行きますわ」と言った、
あの孤高の旅人っぷりは見る影も無い
 
ムルタン行きのフライングコーチは夜7時発で、
それまでにはまだ5時間以上も待たなければならなかった。
待つと言っても宿に部屋が取ってある訳では無く、
駅の入口に陣を取り、一緒にムルタンへ向かう事になった日本人と共に座り込む。
30歳位の年令の彼は、「ヒデ」と名乗った。
国境であったもう一人とは既に別れ、今は彼と2人だけである。
そして特に何かしようという気持ちにはなれない。
インドで手に入れた文庫本を読む気もせず、
テトリス(落ちゲー)も、ポケモン(赤)も、桃鉄(略語)も、
ましてや観光など問題外である。
そんなもんやってられるかって感じだ。
最初の内は2人色々と会話もあったが、やがてそれも無くなり、死ぬ
ダイレクト雑魚寝モードに突入し、虚ろな瞳で天を仰ぐ
ただ、駅の床には無数の蝿が群がっていた。
別にウンコが傍らにある訳でも無く、むしろ地面自体は綺麗だ。
それなのに、この夜空にちりばめられた星々の様な蝿の数は、一体何!?
たまにやって来る掃除婦がそこをホウキで一掃きすると、
奴等は蜘蛛の子を散らす様に(蝿だが)一斉に飛び上がり、
暫くすると何事も無かったかの様に元の位置に戻る。
とはいっても、そんなモノに構っている場合では無く、気を取り直して死ぬ
 
フライングコーチは、その聞いた感じの格好良さとは無関係に、
エアコンも無く、座席も座り心地の悪いただのボロバスで、
約10時間この中で揺れに揺られるかと思うと非常に気が重かった。
しかし幸いな事に、死んでいる為、
辛かったという記憶すら残りそうもない
 
 
と、いうわけで、バスは早朝ムルタンへ到着。ヤッター。
文章だと一瞬だよ!ワーイ。
実際の話、車中何があったか本当に記憶が無いのだが。
何度となくあった筈の検問の事さえも。
バスを降り外へ出るとそこは広いバースターミナルで、
まだ空も暗く、何処へ行けばよいのかさっぱり解らない。
そこで近くにいた数人のパキスタン人に、安宿のある場所を聞いてみると、
彼等は丁度通り掛ったオートリクシャーを止め、
自分たちを運んでいくよう交渉してくれた。
イスラムの教えには「巡礼者には親切にせよ」というものがあり、
旅行者に対してもその通りで、特にパキスタンの人達は人がいいと聞いている。
そこで、まずはその親切を受け、リクシャーに乗る事にした。
もうあのインドの時程に理不尽な精神系攻撃を受けなくて済むかと思うと、
気が楽な反面、少し面白みに欠ける気がしないでもない。
 
インドのオートリクシャーは車体の色が黄に統一されていたが、ここでは青で、
そんな所からも別の国へ来たという事を感じさせる。
舗装されていない乾いた道を走り、街の中心へと向かう途中、
髭面の運転手は、十数台のリクシャーがたむろする広場に立ち寄った。
彼は車を降りると、屋台で酒を飲んでいた知り合いらしい若い男と運転席を代り、
同時にウルドゥ語と思われる言葉で何か伝えた。
「○×△◇、○×△◇」
直感的オート翻訳モード可動。
その言葉は、同じ単語を2回続けたものだった
その時俺様とヒデさんの方をそれぞれ指差した
言葉の語尾はおそらく「ルピー」
(約0.4秒)
推測すると、彼は自分達にそれぞれ幾ら払わせるように
男に言っているのではないだろうか。
そして運転手の何か企んでそうな顔を見て、
一つの予測が頭の中を駆け抜ける。
もしかして、インドではお馴染みだったあの手口か?(第六話参照
乗る時交渉した2人分の値段を、1人ずつ払わせようとしているのでは?
ちょっと待てやコラァ!
叫んだのはヒデさんの方だった。
おそらく同じ様な旅人式フローチャートが出来上がったと思われる。
リクシャーを降り運転手を問い詰めると、やはりその予測は的中していた。
「ふざけるな!」
「最初に言った値段と違う!」
「金は払わんぞ!」
バトル開始!!イーン・パキスタン。
夜明け前のもの静かな街角で突然始まったこの騒動に、
近くにいた大勢のリクシャー乗り達が集ってきた。
そこで、俺様の考える最大級の罵倒フレーズを言い放つ事にする。
お前インド人と同じじゃ!
もしパキスタン人に良心というものがあるのなら、
この男は仲間から非難を受ける事になるのではないか、
一応そんな目論見が含まれている。
その後同業者会議が始まり、髭の運転手は立場が悪くなったのか、
最初の値段で乗せると言い出した。
どうするか迷うところだが、「大丈夫だ」という
周囲の人々を信じ、乗ることに決定。
結局は無事、宿の前へ辿り着く事が出来たが、
我々のパキスタンに対するイメージダウンは相当のものである。
やはり旅する身としては、こんな面白み欠けて良しだ。
 
ホテルではヒデさんとツインの部屋を取る事にした。
旅行者用語でシェアリング(シェア)というやつで、
一人でシングルに泊るよりも安く済むという旅人の習性である。
部屋はトイレ、シャワー付きで結構広く、
案内されると2人とも吸い込まれる様にベッドで横になり、
そのまますぐ眠りについた。
ベッドは硬く、少しデコボコしていて寝心地は悪かったが、
日が登ってきても部屋の中は涼しく、疲れを癒すには十分だった。
 
 
先にヒデさんが起きシャワーを浴びるといったので、
時計を見てみると、すでに11時を回っている。
大分熟睡していたようだが、そのお陰か気分は優れ、疲れもかなり回復している。
そこで、暫くホテルの外へ出てみる事にした。
扉を開ける。・・・眩しい。
最初に思ったのはそれで、次に思ったのは、
何だこの暑さは!
今まで何度と無く言ってきた台詞ではあるが、
それらは全て大した事では無かったと気付く。
今体験しているこの状況に比べたら!!
推定気温50度
日本人の常識的な感覚を遥かに越えている。
「暑い」と言うよりは「熱い」で、吹き付ける風は文字どおり熱風である。
ここに一週間いたら、俺は死ぬな・・・。
シャレでは無く、本気でそう思う。
少し離れた四方から全身をドライアーの「強」であぶられている様だ。
日本でもよく、外国の熱波で人が死ぬニュースが伝わってくるが、
その気持ちが確実に理解出来た。
 
適当に散歩を終え部屋に戻ると、部屋の中はやはり涼しい。
天井にはファンが回っているし、
石造りのぶ厚い壁が外の熱を遮断しているのだろう。
「外、めちゃめちゃ暑かったっスよ」
「そうなの?あ、そういえばシャワー、何かお湯が出るよ
「え?」
話によると、シャワールームには加熱装置らしきものなど特に無いのだが、
何故か熱いお湯がいつまで経っても出てくるらしい。
行ってみると、そこにはシャワーというにはあまりに粗末な
金属の管が上から伸びているだけで、他には低い位置にもう一つ蛇口と、
あとはトイレがあるだけだ。
この構造の粗末さは、誰がどう見ても間違い無く水シャワーの筈である。
それなら水は太陽熱によって水道管ごと温められたという事が想像されるが、
果たしてどれ程のものなのだろうか。
服を脱ぎ、いよいよ蛇口を捻ってみる。
あ、熱ッ
何の溜めも無しに、絶妙な湯加減で、しかも相当な勢いでほとばしる
それが、いつまで経ってもその温度を下げる事無く流れ続けるのだ。
旅に出てから、これ程までに気持ちの良い入浴は無かったかもしれない。
こんな極楽気分は久々である。
結局、この水道管が幾らか冷たい水を供給し始めたのは、
2人の人間がシャワーを浴び、さらに2人目が洗濯をしている最中だった。
やっぱり、これだったんだ・・・。
忘れた頃になって漸く本来の仕様に戻った水道に、半ば呆れる
 
こんなイカれた場所に長居は無用と、2人でこれからまたバスターミナルへ行き、
明日発のフライングコーチを予約する事にした。
目的地はここから西にある街、クエッタ
イラン高原の端に属す為、気温はここより大分下がる筈だ。
とにかく、折角体調も良くなってきたというのに、
いつまでもこんな場所に居たら体力がもちそうにない。
 
しかし、本当の地獄の苦しみは、実はこれから始まる。
灼熱の風に囚われた数日が、あのトレッキングでの10日間をさらに凌ぐ
ハードな生活を齎す事になるだろうとは、思ってもみない事であった。
 

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