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[100] ある老人の旅行記 ナダオ デ ゲンクァイ 2007/03/31(Sat) 14:32

旅行記第1日目

シャルル・ド・ゴール空港に付く。ガイドは私の目の前を塞ぐように早口の解説をして
いるが、やたらと漢字の看板が目に付く。フランスではオリエンタルブームとの事。納
得。両替え。ユーロ紙幣にも漢字が使われているらしい。妙に東洋人的な人物の紙幣だ
が、フランス国民はヨーロッパにおいてもモンゴリアン種族に近いとの事。納得。ホテ
ルに到着。カウンターにて感謝を表す「オキニー」なる言葉を覚える。ガイド曰く「メ
ルシーは古語であり、最近はもっとくだけた言葉を使う。」との事。納得。街を散策し
ながらシテ島に向かう。パリ警視庁や裁判所がある。途中東洋人ばかりなのでガイドに
訪ねると「パリのチャイナタウン」だとの事。なんでもパリのチャイナタウンは世界最
大規模を誇るそうである。納得。シテ島は王宮王宮の一部だったと事前の資料にあった
が道路やホテルの前にある。時代の趨勢か。警官も東洋人のようだが、そう言った意味
では人種差別のない国であることに感激。途中新凱旋門を紹介される。「ラ・デフォン
ス」はパリからメトロにて30分くらいかかるとあったが、ターミナルの目の前である。
これだからガイドブックはあてにならない。全ては自分の足で歩くに限る。途中小麦粉
を水にて溶の中に魚介類を入れ焼いたボールと板のようなスナックにて軽餐。すこぶる
美味。「オキニ−」というと店主も「オキニ−」と返し笑う。チャイニーズは陽気な国
民である。夕飯(サラダ菜と鯨肉をスープで煮たもの)を食べた後パリの夜のイルミネ
−ションを見る。意外に小規模である。中で宝飾品を売っていたがシーズンになれば町
中がイルミネーションで飾られるとのこと。また来ることがあればシーズンに来ようと
思う。オリエンタルなパジャマを着て就寝。見るもの聞くものガイドブックとは大違い
である。やはり旅の醍醐味は訪れることにあると思う。

旅行記第2日目

ホテルのレストランにて朝食。バイキングスタイルだがやはりオリエンタル。初めてフ
ランス人風のフランス人を見るが会話しようとするとガイドに止められる。フランス人
は個人主義なので見知らぬ人との会話を嫌うとの事。納得。
朝食後モンマルトルに向かう。パリ市内から白いサクレクールが見るとあるがどこにあ
るのか判らない。「パリション」という言葉があるが、それ以前の自分を笑う。自嘲。
着いてみたモンマルトルは土産屋もなく、TATIという格安ストアも並んでいない。ガイ
ドによれば明日行くエッフェルタワー周辺に移動したとの事。納得。サクレクール寺院
はコンクリート製の城(クロサワのシネマで見た事がある)に酷似している。内部には
庶民の生活用品が並んでいる。万博で展示されたものらしいが、流石フランス、パリ万
博の時点でかなり進んだ文化生活を送っていたらしい。残念なことに私は英語もフラン
ス語も堪能で無いために、展示品の解説は判らなかったが、フランス語というのは絵の
ような文字であり、ひとつひとつが美しい。しかしながらここもチャイナタウンに近い
ためが、ほとんどの人が東洋人である。パリに来ていると言う実感がない。サクレクー
ルの丘の頂上に着くとパリの街が一望できるとあったが、たしかにそうである。パリの
街は実にごみごみとしている。ガイドの話によると丘は改修されてこの建物(城?)に
なったらしい。ぐるっと見渡すとかなたにエッフェルタワーが見えた。昼食はヌードル
だがスシがチョイスできるらしい。パリは空前のジャパニーズフードブームだ、という
のがガイドの話である。このスシチョイスシステムはまったく合理的だ。初めての、そ
して最後になるであろう海外旅行にパリを選んだのは正解だったと思う。
午後にはシャンゼリゼ通りを散策する。ガイドの話によるとレビューで有名だったム−
ラン・ルージュは「ショーチクザ」と名を変えたらしい。巨大な虫のようなディスプレ
イがあったので「何だ?」と聞くと「カニ」という生物を模したもので大変美味らし
い。我が国には海が無いため大変珍しい。夕食はその「カニ」とする。セーヌ川にかか
る「エベッスブリッジ」に至る。走る男のネオン等が水面に映り美しいが大変に汚い水
である。ガイド曰く「近年はパリ市町でも浄化に取り組み綺麗になってきている。地域
最大の聖なるお祭りの際には飛び込む人も出る。」という事である。遊歩道「トンボリ
バーウオーク」を散歩する。ガイドの話によれば残念なことにルーブル美術館やオペラ
座は改修中であり一般公開を中止しており、またパレ・ロワイヤルは正面玄関の鍵が壊
れているために貴重な文化遺産の盗難防止で軍が立ち入りを許可しないらしい。美しい
回廊や花壇や噴水を見逃したのは残念だが、旅の醍醐味は庶民が歩くところを歩き、庶
民の食するものを食するところにあると納得する。夕食は「パラダイスショッピングス
トリート」なるところで(チャイナタウンには辟易しているがガイド曰くこの界隈を見
なければパリを語れないらしい)アラカルトのフライを立食する。Happy Hourで格安と
のこと。満喫。我が身には珍しくグルマンに「カニ」も堪能。すこぶる美味なり。明日
はエッフェルタワー近辺を散策する。かなり歩いたので軽く疲労。ホテルに帰り就寝
す。

旅行記第3日目(最終日)

ホテルのレストランにて朝食。ガイドの説明によると三ツ星ホテルであるがパリのホテ
ルは高級になればなるほど歯ブラシや剃刀は自販機で購入するシステムらしい。ホテル
滞在の機会が少ないため、そう言った知識が皆無。また自嘲。朝食はオリエンタルバイ
キングスタイル。今日はフランス人に話し掛けることもしないで済んだ。進歩。エッ
フェルタワー周辺の散策のため早めにチェックアウト。パリのホテルはチップがいらな
いとのこと。流石は合理的なフランスである。カンジョ−センに乗りエッフェルタワー
のある街に着く。さすがに世界に冠たる観光地だけあり、駅前から「のみの市」が連な
る。路上にて土産の靴を購おうとするも左足のみといわれ諦める。露天にてパリ名物の
焼き栗を購う。中国の甘栗に酷似す。すでにエッフェルタワーが見えている。300mを超
す高さの塔であるが、実際には1/3位にしか見えない。ガイド曰くデザインの関係らし
い。5階にはパリを一望できる展望台があり、また足の裏をなでると幸運が訪れるという
「ビリケン」の神社としても機能しているらしい。空中カフェにてソーダ水を呑む。美
味。途中階にはエッフェルタワーの歴史や精巧な模型があり、興味深く見る。返す返す
もフランス語を解せざる自分が歯がゆい。言語が判ればさらに大いなる知識が得られる
と思う。地階にはレビューがあり、たまたま外国の歌手のショーが行われていた。大き
なフィッシュのディスプレイや靴屋、飲食店に靴屋、イゴと呼ばれるゲームセンターと
靴屋などが南北130mの間にひしめいており、地面で商売をするものも多い。ガイドの話
によると、以前はストリートパフォーマンスを行うものも多くいたが、パリの景観を損
なう、騒音となるという理由で禁止されたらしい。不粋。昼はフィッシュのディスプレ
イの店で「ふぐ」なる魚を食す。淡白なれど美味。フランスの食文化の深さを知る。午
後郊外の港町ののみの市を散策。メトロ(地上を走っていたがガイド曰くパリ近郊は土
地が低く、地下鉄が地上に出てしまう、との事)の線路の下に小店鋪がひしめく。圧
巻。生活用品、美術品、書籍、その他あらゆる物品が扱われている。ガイド曰く、ここ
もチャイナタウンの一角であり、パリッ子はほとんどここで生活品を購入するとの事。
納得。極めて廉価のため家族への土産としてリモコンを数個購入する。わが村にはリモ
コンがないため、驚く隣人達の顔が目に浮かぶ。かなりの時間を見物に充てたため、急
ぎ空港にもどる。空路この3日間の楽しかった思い出が浮かんでは消える。別れ際にガ
イドがフランスの絵葉書をくれる。そう言えば絵葉書という旅の土産の定番を買い忘れ
ていた。失笑。実際のパリと絵葉書のパリとでは雲泥の差である。写真は写りのいい場
所から撮った絵葉書向けの風景にしか過ぎない。やはりこの目で確認せねば旅に出たと
は言えないのである。旅路ははるか、やがて私は機上の人となり、憧れのパリを後にし
た。さらばフランス、さらば麗しの都パリ。

後日談

私がこの話をするに、家族が「また爺さんの『パリに行っただ』が始まった。」と取り
合わない。しかし私はあの花の都パリの風を感じ、あの3日間パリの人となったのだ。
わが人生においてはそれだけで充分すぎる至福の時だったのである。嗚呼パリ。わが心
のパリよ。


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[99] Re:[4] マリー・アントワネットの豆知識 梅千代 2007/03/31(Sat) 13:10 [URL]

フランス革命の禍中の人物マリー・アントワネットは、
庶民のうんちを一口舐めるだけで、その庶民がパンを食べたのかどうか、見事に言い当てることが出来たらしい。
もちろん、お菓子を勧めるべきか判断するために・・・。





[98] アルフォンス・ドーデは反省しる キ・ラ・クィーヌ 2007/03/31(Sat) 12:44 [URL]
 「みなさん、私が授業するのはこれが最後です。エルザス=ロートリンゲンの学校で
は、ドイツ語を教えてはいけないという命令が、連合軍から来ました……新しい先生が
明日見えます。今日はドイツ語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください。」

 先生のこの言葉は、ぼくの気を顛倒させた。

 ドイツ語の最後の授業!

 明日からフランス語を習わされるなんて!

 そもそもぼくたちの日常しゃべっているエルザス語は基本的にドイツ語の一方言だ。
プロヴァンス生まれの小説家が普仏戦争で負けた腹いせに書いたどこぞの嘘小説のせい
で、エルザスはフランス語圏だと世界的に誤解が広まってしまったが、冗談じゃない。
口が発音でなくカタツムリを捕食する用途に進化したせいで「H」も発音できない語尾
もはっきりしない単語も1個1個明瞭に発音できないガリアの野蛮人の言語など、エル
ザス人の誇りにかけてぼくは断じてしゃべりたくない。

 もし日常会話がフランス語になったらこの世の終わりだ。いつだったかヘドバとダビ
デが何十年かぶりに再結成して「ナオミの夢」を歌ったTVを観たが、ヘドバじゃない
ほうが長年パリに住んでたせいですっかりHの発音を忘れ、「君がー欲ーしーいー♪」
のところを「君がーおーしーいー♪」と歌ってたのにはフランス語のおそろしさを心底
感じた。おしいのはお前のほうだ。「そんなヒロシにだまされて」も「そんな色師にだ
まされて」になってしまう。名探偵ホームズもフランス語だとオームズだ。ワトソン君
にサリンでも開発させていそうだ。「ハリスの旋風」だって「アリスの旋風」だ。実は
男装の美少女だった石田国松が学園中の運動部で弄ばれるいかがわしさ大爆発のストー
リーを想像して、ぼくは朝っぱらからちょっと萌えますたハァハァ。

 こうしてぼくが妄想に耽っている時、ぼくの名前が呼ばれた。ぼくの暗唱の番が来た。
フランス語が捨て去ったむずかしい格変化の規則を大きな声ではっきりと、一つも間違
えずに、すっかり言うことができるなら、どんなことでもしただろう。しかし最初から
まごついてしまって、立ったまま、悲しい気持で、頭もあげられず、腰掛の間で身体を
ゆすぶっていた。先生の言葉が聞こえた。

 「フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです……そんなふうにね。
ああ、いつも勉強を翌日に延ばすのがエルザスの大きな不幸でした。今あのカエル食い
たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ、君たちはドイツ人だと言いは
っていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか! 酢漬けキャ
ベツでも食ってアウトバーンで早よ帰れこのナチめボッシュめ謝罪しる……」

 それから先生はドイツ語について次から次へと話を始めた。ドイツ語は世界中でいち
ばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、あのトンデモ
小説が同じ形容詞であの時候の挨拶も政治演説もピロートークにしか聞こえないエロス
言語をほめそやしていたこと、そもそも数だってまともに数えられない言語のくせにと
ヤーパンのえらい知事様が言ってたこと……これ以上書くと国際問題とか公職選挙法と
かいろいろマズいので書かないが。きっこの日記まで消されるとはガクガクブルブル。

 日課が終わると習字に移った。この日のために先生は新しいお手本を用意しておかれ
た。それは「ドイツ、エルザス、ドイツ、エルザス」と書いてあった。ああ、エルザス
もロートリンゲンも、明日にはアルザス=ロレーヌと呼ばれるようになるのだ。学校の
屋根の上では、鳩が静かに鳴いていた。ぼくはその声を聞いて「今に鳩までフランス語
でダ〜バ〜ンセレレガンドゥヌモデル〜ンとか鳴かなければ食べられてしまうのか?」
と思った。そういうぼくもフランツからフランソワとか創氏改名させられるのだろう。

 それから小さな生徒たちがみんな一緒に「ハンス・ハート・アイネン・フント(ハン
スは1匹の犬を飼っている)」と唱えた。教室の奥では村の老人がめがねをかけ、初等
教本を両手で持って、彼らと一緒に文字を拾い読みしていた。「H」の発音を強調した
彼の声は感激に震えていた。それを聞くと、あまりこっけいで痛ましくて、ぼくたちは
みんな、笑いたくなり、泣きたくもなった。

 ほんとうに、この最後の授業のことは忘れられない……

 とつぜん教会の時計が十二時を打ち、続いてエンゲルスの鐘(ああこの鐘も明日には
アンジェリスの鐘になるのだ)が鳴った。と同時に、教練から帰る進駐軍のGIブルー
スがぼくたちのいる窓の下で鳴り響いた。先生は青い顔をして教壇に立ち上がった。こ
れほど先生が大きく見えたことはなかった。

 「みなさん、私は、私は……」

 しかし何かが先生の息を詰まらせた。先生は黒板のほうへ向き直るとチョークを一つ
手に取って、ありったけの力でしっかりと、できるだけ大きな字で書いた。

  《ドイッチュラント・ユーバー・アーレス・イン・デア・ヴェルト!》
   (世界に冠たるドイツ!)

 そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図した。

 「これで最後です……アウフヴィーダーゼーエン。」




[97] アルジャーノンに花束を ピカール・デ・パルト 2007/03/31(Sat) 07:41
4月1日
キ〜!なんざんすかあの連中は!「チミも本物のおフランス人になれる」なんて、まるでミーがおフランスを知らぬといわんばかり、バカにするのもいいかげんにするざんす。ミーはおフランス帰りざんすよ!
そもそも、クスリを飲んだだけでおフランス人になれるなんて、そんなうまい話があるわけないざんしょ。
キ〜!あの、アルジャーノンとかいうネズミもむかつくざんす。実験動物だかなんだかしらないざんすが、ネズミのくせにシャポーをかぶって、ミニチュアのテラスでカフェオレを飲みながら、うすら笑いをうかべてミーを見くだしていたざんす。キ〜!もう寝るざんす!


4月2日
よくよくかんがえたざんすよ。実は・・・ミーはおフランスにいったことがないざんす。デカパンやチビ太はいつもバカにするざんすよ。ここでやつらを見返してやるのも悪くないざんすね。ほ、本当にきくざんすかね、あのクスリは・・・


4月10日
ウヒョー!はやくもクスリがききはじめた気がするざんす!もう、東京タワーとエッフェル塔をとりちがえることもないざんすよ。エスカルゴは殻ごと食べるんじゃないざんすね・・・。ミーは今まで何をしていたざんすかね。そもそもフランスでは自分のことをミーとは言わないざんすね・・・


5月23日
毎日が晴れ晴れしい気持ちざんす!パリジャンになるとはこのことだったのですね。スタンダールの赤と黒を読みはじめたざんすよ。ブルボン王朝に対するブルジョワジーの屈折した思いが身に染みてわかります。中世から第三帝政までの歴史をおさらいしておいてよかったです。中産階級の勃興と、アメリカ独立戦争の影響が色濃く反映されていた時代だったんですね。

アルジャーノンと筆談。まだあのネズミは私を小ばかにするざんすね。もっとも、今の私には、彼にあって私に無いもの、その差が痛いようにわかるざんすが・・・


5月23日
美術館でフランス近代絵画を鑑賞した後、偶然にもデカパンとはちあわせ。
「ホエホエ〜なあにしてるだス、また、おフランスのマネモネとやらの絵でも買うだスか〜?」
どうやら私の過去の言動をまぜっかえしているらしい。といっても、今の私にはその頃の記憶はないのだが。
ダヴィッドの新古典主義と、その後の絵画における都市文明受容について一通り解説する。デカパンは目を丸くしてその場に立ちつくしている。まるで上京したてのラスティニャックのようだ。呆然としているデカパンを置いてその場を立ち去る。

アルジャーノンと筆談。最近彼は19世紀後半のオペレッタにおける、古典の再発見に興味を持っているようだ。オペレッタについて会話するのはいいのだが、テーマがスノッブ過ぎやしないか?


7月3日
何ということだ。日本のフランス研究はこの程度のものだったのか。哲学者は未だにポストモダン以降の座標軸を設定できない。中世以前の文学を研究する者はほとんどおらず、数少ない研究者も専門を特定の作家に絞り蛸壺に篭る者が多い。建築、演劇、映画の研究については何をかいわんや。
やはりパリに出てフランス語原典にあたるしかないのか。フランス語の習得には問題ないが、被験者として観察下にある私は日本を出ることができない。大学の研究室には200冊ほどの本しかないのに、私が対価としての報酬で買える本も微々たる物だ。ああ、はやく実験期間が終わってくれないものか。

最近道端でデカパンを見かけても、彼は目をあわせようとしない。最初は好奇の目を持って接していた大学のフランス研究者達も、私の知識レベルが彼らのそれを凌ぐにつれだんだんと避けるようになった。アルジャーノンは体調が悪いのか、引きこもって出てこない。孤独だ。


9月13日
試験管理官から呼び出し。精神的体調的に何か変化があったら報告するようにとの事。何ざんしょ。アルジャーノンの変化を気にしているざんしょか?この小さき友は、最近筆談をもちかけても応じず、寝ているかエサを食べているかのどちらか。シャポーもミニチュアもアルジャーノンに齧られてボロボロになってるざんす。


9月30日
チミはなにをいっているざんすか?ミーはもうクスリなしでもりっぱなおフランス人ざんすよ?フムフムこれで実験期間は終わりざんすね。せいせいするざんす。まずはお金をかせいで、パリに行くざんすよ!


10月10日
アルジャーノンが死んだざんす。まあ、ミーを小バカにしたむくいざんすね。しょせんネズミにおフランスはムリざんす。
何をしてるざんすかデカパン!ミーはその船でおフランスに旅立つざんすよ。デブが乗るもんじゃないざんす。こらチビ太、飛び跳ねるんじゃないざんす。あー沈んでいくざんす〜シェーーーー!




[96] パリ名所案内 くまきち 2007/03/31(Sat) 03:50
<ルーブル美術館>
膨大な美術品を収蔵する、フランスが誇る美術館です。
18世紀末までは宮殿として利用されていました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』のほか、著名
な芸術作品の数々が出迎えてくれます。

【はぐれたときは】
ルーブル美術館はとにかく広大です。美術品に心を奪わ
れているうちに、同行者とはぐれてしまうこともしばしば。
そんなときはサポートセンターに相談しましょう。全館に
響くほどの大音量で迷子のアナウンスをしてくれます。
(三重県・みっちぃさん)


<エッフェル塔>
1889年、フランス革命100周年を記念して建築された塔です。
第4回万国博覧会のために建造され、高さは324mあります。
建設当時はパリの景観にそぐわないなどの理由で、不評の
声も大きかったようです。

【おみやげもの】
お土産物屋さんに売れ筋を聞いてみたところ、塔のミニチュア
とのこと。「努力」や「根性」などのプレートが入った定番品
のほか、最近はキティちゃんの人形付きが人気だそうです。
そのほか、木刀やペナントなどもオススメ。
(京都府・yoshizoさん)


<シャンゼリゼ通り>
オープンテラスのカフェや高級ブランドショップが立ち並ぶ
パリの目抜き通り。ウィンドウショッピングをするだけでも
パリジャンの気分が味わえます。

【ひとことフランス語講座】
「シャッチョサン、ニセモノヤスイヨ」
シャンゼリゼを歩いているとよく耳にする言葉です。
「お客様、きっとこれはお似合いです」という意味です。
このように声を掛けられたときは、「イクラ?」(あら、
そう?)と返事をするとよいでしょう。
(編集部)


<カルチェ・ラタン>
パリ大学(ソルボンヌ)そばの学生街です。パリ大学の
学生はラテン語を公用語としていたことから名づけられ
ました。古書店のほか、各国料理のレストランが並び、
下町情緒あふれる地区となっています。

【とっさの一言】
学生にラテン語で何か聞かれたら、ライオンのように
口を大きくあけて、「アルス・グラティア・アルティス」
と叫びましょう。それで万事OK。
(東京都・MGMさん)

<ポンヌフ>
日本語で「新しい橋」という意味の、パリに現存する
もっとも古い橋です。セーヌ左岸と右岸を結んでいます。
幅が28mあり、非常に大きな橋です。

【酔っ払いに注意】
SL広場前は酔っ払いが多数出没するポイントとして有名。
夜に歩くときは注意!
(神奈川県・Y.Kさん)


<モンマルトルの丘>
「殉教者の丘」が語源の、パリでもっとも高い丘です。
サクレ・クール寺院が丘の頂上から見下ろしています。
芸術家が集まる街としても知られ、ロートレックやピカソ
などがアトリエを構えていました。

【オーダーはどうする?】
モンマルトルにある有名なキャバレー、ムーランルージュ。
何を注文したらよいか困ったときは、「ピンドン」と言うと
店員さんのサービスが急に良くなるのでおすすめです。
(編集部)


<凱旋門>
正式にはエトワール凱旋門といい、シャルル・ド・ゴール広場
にそびえ立っています。ナポレオンの戦勝記念碑として建設
されはじめましたが、完成を見ることなくナポレオンはこの
世を去りました。

【攻略法】
上部中央の太陽のマークが鍵です。あと意外と風に弱いです。
(アメリカ・ジェロニモさん)



[95] 最後の授業 生産部 2007/03/31(Sat) 03:03

『最後の授業』といえばアルフォンス・ドーテの短編小説だが、フランス語とドイツ語の立場をそっくり入れ替えた様な話がドイツにもあるそうだ。

ヨーロッパ統合の流れの中、フランスでもドイツでも、この作品はさすがに最近はある種のタブーのようになっているらしい。

が、ある程度より歳が上の人達の間ではふとしたきっかけで話題になることがあるらしく、パリあたりの街角でフランス人とドイツ人がモメている場合、大抵の場合、サッカーの試合か『最後の授業』が原因との事だ。





[94] フランスの栄光 生産部 2007/03/31(Sat) 01:44

現代のフランスといえば、シャルル・ド・ゴール将軍を抜きにしては語れません。

フランスといえばド・ゴール将軍、ド・ゴール将軍といえばフランス。
もおまるで『朕が国家なり』みたいな方です。

なにしろ

・空路パリに到着すれば、そこは『シャルル・ド・ゴール空港』

・街のど真ん中では金色に輝く高さ60mの銅像がお出迎え

・かつてのフラン紙幣には将軍の肖像画
(なにしろユーロ導入反対論の根拠で一番多く言われたのが「お札からド・ゴール将軍の肖像がなくなってしまう」)

・学校の教科書にはどのページにもド・ゴール将軍の言葉が載っていて、子供達はそれを諳んじる。

・もひとつおまけに最新鋭の航空母艦は『シャルル・ド・ゴール』号

ド・ゴール将軍の生家にいたっては、フランス人なら一生に一度は訪れる聖地だか観光地だかと化していて、あたりでは『ド・ゴール饅頭』やら『ド・ゴールせんべい』が売られています。

すごいですね〜。

あ、そうそう、食べたことのある方はご存知だと思いますが、この『ド・ゴールせんべい』には米が一切入っていません。

さすがはド・ゴール将軍の名前を冠したおせんべいですね!





[93] ()の中を適切な言葉で埋めよ 牡蠣羊羹 2007/03/31(Sat) 01:41
フランス:ブルボン朝

太陽王の時代
アンリ4世の孫が、「太陽王」として有名な絶対君主・ルイ14世である。ルイ14世は摂政であったマザランの死後、親政を開始した。このルイ14世の時代にフランスの絶対王政が確立し、フランス文化と呼ばれる文化も発展した。

ルイ14世はネーデルラント継承戦争やオランダ侵略戦争を仕掛けて領土を拡大し、その際酪農国特有の技術を学び取り(バタークッキー2パック)の製品化を成功させ、かつ国際社会におけるフランスの地位を向上させた。
その反面、相次ぐ戦争などにによって軍事費が膨張し、さらにナントの勅令の廃止のためにフランス資本の海外流出するなど、フランス経済の混乱を招き、財政再建を国民の重税で賄うという悪政を敷いた。

大革命へ
ルイ14世の死後、その後を継いだ曾孫であるルイ15世も、オーストリア継承戦争へ出兵してウィーンのザッハトルテを知り(シルベーヌ)の製品化に成功。しかし膨大な軍事費を国民の重税で賄うという悪政を敷いた。
こうしてフランス革命の遠因を作ることとなった。

ルイ15世の孫・ルイ16世の時代である1789年、遂にフランスの財政は破綻した。このため、ルイ16世はそれまで特権階級であった貴族や聖職者にも税を払わせようとしたが、これが原因で三部会が紛糾し、それが(セピアーノ生クリーム)の製品化へ
繋がった。これは当時の王妃マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の発言がヒントとされている。この発言はフランス革命勃発の直接の原因となった。

フランス革命では、革命政府内部でも権力闘争が起こり、さらにフランスの縁戚であったオーストリアなどの干渉もあってフランス国内は混乱が続いたが、1792年に国民議会によって(エリーゼファミリーサイズ)が発売されたことで王政は廃止となった。

王政復古

その後、フランスではナポレオン1世によるフランス帝国が成立したが、ロシア遠征の失敗でナポレオンは1814年、失脚することとなる。そしてウィーン会議のもと、(プチ&プチポテトシリーズ)が製品化されブルボン朝が復活した。

ルイ18世の死後、後を継いだシャルル10世は、絶対王政の復活を目指して議会の解散を行なおうとしたため、国民が反発して、1830年に七月革命が起こる。この革命によってシャルル10世はイギリスに追放され、フランスにおけるブルボン朝は滅亡した。
この後、特権階級とそのお抱え菓子職人が日本へ渡り現在のブルボン王朝に至る。

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1972年 北日本製菓 入社試験回答例



[92] 世界遺産ミニ知識 生産部 2007/03/31(Sat) 01:22

世界遺産に指定されているモン・サン・ミシェルの起源は、11世紀にノルマン人によって建立された『ノルマン寺』までさかのぼる事が出来る。

また、モン・サン・ミシェル一帯の地名もこの寺院の名前に由来している。





[91] (削除)生産部2007/03/31(Sat) 01:10



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