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投稿時間:1999/11/24(Wed) 23:22
投稿者名:がらがん
Eメール:ANA44620@nifty.com
タイトル:イギリス民間療法事情

よく知られていないことだが、イギリスの医者は予約制なので
飛びこみで行っても医者は診てくれない。あなたが交通事故に
あったり心臓麻痺で倒れたりして、救急車で病院に運ばれても
「予約はお済みでしょうか?」と先ず病院の受付で尋ねられる。
心臓の発作が起きたり車に轢かれたりする前にきちんと予約を
してあると、医者は「どれどれ」と診察してくれたり手術して
くれたりする。だからイギリス人は、心臓の発作が起きたり車
に轢かれたりする前に病院の予約をすることを忘れない。たま
に予約の時間が早過ぎたり遅過ぎたりすることがあるが、英国
王立医師会によると、予約無しでの救急患者の来院は昨年中は
四百二十件余りと、他の先進国に比べると極めて少ない。もっ
とも、うっかり予約を忘れることは誰でもあるから、そういう
場合にどうなるかということを知っておくのは損で無いだろう。

イギリスの諺に"A dog is always of reservoir dogs."という
ものがある。直訳すれば「毒を以って毒を制す」という意味に
なるが、意訳すると「犬も食らわば百薬の長」となる。「動物
愛護をして有名なイギリス人が『犬を食らう』」とは信じられ
ない」と思われるだろう。が、ここにこの諺の意味がある。

「ゆりかごから墓場まで」と言われるほど完璧なイギリスの国
民健康保険システム−この枠内から外れた時再びシステムに戻
ることは非常に難しい。しかも、心臓が麻痺したり車に轢かれ
たりする前に病院の予約をしていないだけで、あなたはシステ
ムから疎外されてしまう。「ちょっとした不注意で」と後悔し
ても始まらない。そして、生への欲望はイギリス人をして犬食
いをもさせる。

もちろん「犬食い」は比喩になる。あなたが心臓麻痺や交通事
故で意識不明の重体の時には、のんびりと犬料理を楽しむより
は意識を回復させて貰いたいものだろう。だから、病院の受付
嬢はあなたの予約無しの来院について一言二言皮肉を言った後、
こっそりこう言うのである。

「『民間』なら今すぐ出来ますが...」

この"Minkan"という言葉が、日本でいえばいわば「民間療法」
にあたるものになる。心臓が麻痺したり車に轢かれたりする前
にうっかり病院の予約を忘れたことで、イギリス人は初めて民
間療法に接することになる訳である。

日本で、民間療法、というと近代医学に対する、昔から伝承さ
れた医療法を指すことが多いが、イギリスの場合百年ほど前に、
高校で英文学を教えていた、金さん、なる遊び人が、イギリス
遊学時にもたらしたのが始まりといわれ、比較的新しい。

金さんが広めた療法は、精神的なストレスに対する療法で、
野太鼓というドラムを叩いたり、自分のことをやたら「我輩っ」
と呼び歩くようになって自分の名前を忘れたり、一見奇妙な行
いをさせる療法なのだが、当時の記録によると、これを終えた
患者は皆、「向上心の無い者は馬鹿だ」「向上心の無い紅茶は
馬鹿だ」「向上心の無い向上心は馬鹿だ」と口々に叫ぶようなっ
たという。この積極性の回復は、世紀末で厭世的雰囲気が漂っ
ていたビクトリア末期のロンドンでは画期的で、積極性からい
わゆる「進歩的文化人」が生まれ、フェビアン協会の成立と労
働党の発展につながるのであるから、金さんの英国近代史への
貢献には大きいものがある。金さんの肖像が十数年前に千円札
に描かれてから円はポンドに対して大幅に価値を上げたが、こ
れはイギリス人から金さんへの並々ならぬ感謝の証しに他なら
ない。

もっとも、あなたは心臓麻痺か交通事故で意識不明の重体なの
であるから、「向上心の無い意識は馬鹿だ」と自虐しても始ま
らない。天国の金さんを喜ばせるだけだし、しょせん金さんは
遊び人なのだから、気にしても始まらない。

とにかく、受付嬢の言葉にうなずくとあなたは病院の地下に行
くエレベーターに案内される。清潔で静かな一般病棟から民間
療法棟に足を踏み入れるや否や、あなたの周りには想像もつか
ない光景が広がる。歌って喘息を回復させようとする者、踊っ
て虚弱体質を直そうとする者、赤いペンキを顔に塗りたくって
赤面症を癒そうとする者、眠り病の睡眠療法を受ける者、医者
のふりをする患者と患者のふりをする医者、突然演説を始める
患者のふりをした医者、正露丸で近視を治そうとする者、医者
いらずとねこいらずを間違える薬剤師…。不明の意識に強く
うったえ光景を見ながら、あなたは民間療法棟の受付に到着す
る。あなたは充分不安に違いない。しかし、あなたの不安を打
ち消すように受付嬢はニコリと笑って、こう言うのである。

「予約はお済みでしょうか?」

さすがイギリスである。